中学校では学校をあげて朝読書に取り組み、落ち着きのない子どもたちも次第に本の世界に引き込まれ、教室が静寂に満ちてきた、という事例はたくさん聞いていらっしゃると思います。その子たちは、漢字やひらがな、カタカナという文字を通して情景を思い浮かべ、登場人物の心情や性格を想像しています。これが「読書」です。
それならば、英語でも同じことをさせたい。アルファベットの羅列から情景、心情などを読み取れるようになってほしい。そのためには、英語の語句や文を感じないといけません。英語が頭と心に染み込んだあとに、その情景や心情を日本語で描写したらどうなるか、というのが和訳です。
私は芭蕉の俳句の英訳や、中原中也賞を受賞した、Arthur Binardさんの『釣り上げては』(思潮社)などを読んだとき、いかに両言語を感じることが大切かを感じました。つまり、訳は「英語→日本語」でも、「日本語→英語」でもなく、「英語→頭と心→日本語」「日本語→頭と心→英語」というプロセスを経て、初めてできることだと思います。
私は文単位の訳は危険だと思います。一度体を経由しないと、特に複雑な文などはひどい日本語訳ができあがることが多いからです。一方、英文を意味の固まりに分け、上から意味を確認していく「センスグループ訳」はネイティブと近い感覚で意味を取れるので有効だと思います。
〔例〕I / want / some coffee. →「私/望む/いくらかのコーヒー」
I / want / to take / a rest. →「私/望む/取ること/休憩を」
I / want / him / to study / hard. →「私/望む/彼に/勉強する/一生懸命」
これらの日本語を日本に来て間もない英語のネイティブスピーカーが言ったとすると、皆さんはちゃんと意味がわかると思いますし、中には丁寧に直してあげる人もいるかもしれません。例えば、「私望むいくらかのコーヒー」と聞いて、「コーヒーがほしいんだね」とか、「私望む取ること休憩を」を「休憩を取りたいんだね」とか、「私望む彼に勉強する一生懸命」を「彼に一生懸命勉強してもらいたいんだね」などというように。
上記の例を見てもわかるように、ネイティブは3つの文のwantを全て「望む」という意味で捉えています。want 〜は「〜がほしい」、want to 〜は「〜したい」、want 人 to 〜は「人に〜してもらいたい」というふうに丸暗記する前に、wantの意味を感じてほしい、それが私が生徒に願っていたことです。
このように、英文を和訳するためには、@英文を読む、Aセンスグループごとに意味をつかむ、Bきれいな日本語にする、という3つの段階があります。AをとばしてBはあり得ないのではないでしょうか。そして、A→Bは英語の勉強ではなく、国語の勉強です。